Storage of Father
父の記憶
父の生い立ち
父は7人兄弟の次男として長崎の商家で生まれた。以前、茶碗蒸しで有名な「吉宗」を取材したことがある。オーナーとは長崎商業時代の仲良しであると聞いていた私は、その話をすると「相撲部の玉さんの息子か」と言って歓待してくれた。玉三郎と名付けられた父は小兵(身長163cm)ながら強かったらしい。当時は次男だったので家督を相続できるはずは無く、21歳のとき家の売り上げから300円ほど(小さな家ぐらいは買えた金額)持ち出し満州へ渡る。破天荒な性格だったようだ。かの地で大戦を経験した後、シベリアに2年ほど抑留され。帰国したときは30代半ばを過ぎていた。
父の教訓
父親には私も妹もオンブされたことがなく正座も許されなかった。足が曲がるという理由だったが、幸か不幸か、今も兄妹揃って正座ができない。家には畳の間であっても椅子やソファーに座るのが当たり前で、しかも牛乳を大量に飲まされていた。
幼少の私
「戦争に負けたのは、体格が悪いからだ」といつも聞かされていた。シベリアでロシア人と接しているなか、そのように思い込んだのか、食卓に上がるのはお茶ではなくいつも牛乳。ミルクベースのスープに始まり、最後は牛乳かけごはんを食べさせられたことも珍しくはない。おかげで私の身長は中学生時代で175cmに達した。
父と中州
私が生まれたのは博多部の上川端界隈、とてもにぎやかで中州が近かった。
マリリン・モンローとジョー・ディマジオが一緒に中州へ来福した際、肩車され見にでかけた。2階のテラスからモンローが手を振っていた姿を漠然とだが覚えている。
外食は日活ホテルのレストランでという風に父にとって中州は散歩場所みたいなところだったのだろう。他に親戚や友人、社員たちがいたのかどうかは定かでないが、私を連れ馴染みのクラブへでかけた時、店の女性に「ビールは何本ご用意しますか?」と尋ねられ「ケースごと持ってこい」という父の言葉が記憶に残っている。
父親は豪快だったようだ。
父の迎え
物心がつき思春期を迎えた高校時代、私は警察に補導されたことがある。引き取りにきた父親が「そんなに悪いのなら、少年院に入れてくれ」と担当官に話している。「いや、そこまでは悪くない」と答えた瞬間「だったら何故将来ある若者を補導するのか?」と問いつめている。帰りのクルマの中で「悪く思われるのは、お前自身だからな」とニヤつきながら話しているそのときの表情が忘れられない。その日以来、今もはっきり言える「警察権力は嫌いだ」と。
父の匂い
私は匂い、香りといった類いが好きで生意気にも高校時代からオード・トワレを使っている。フランスに傾いていたので、そのときはディオールの「オー・ソバージュ」をつけていたのだが、父親は岩田屋に入っていた「アラミス」の女性店員が好みだという理由だけで「アラミス」をいつも振りかけていた。毎朝、転校した高校へクルマで送ってくれるのだが、麝香の入った米国製「アラミス」には、さすがのフランス製も敵わない。よく同乗していた近くに住む後輩も「オー・ソバージュ」対「アラミス」の戦いを今でも覚えているそうだ。加えて、表は地味だけど裏地が派手なスリーピースのスーツを着こなし、「アラミス」の匂いに包まれ千鳥足で帰ってくる父親の姿が目に焼き付いているという。
麝香が入ったフレグランスを嗅ぐと、今でも父親の姿が目に浮かぶ。
父から聞いた話には誇張が混じっていたかもしれない。とはいえ、何度も同じ話を聞かされ記憶に残っている。大戦を経験し大陸での生活が長かった。そんな父親も数年間、想い出の中に閉じ、84歳で彼岸へと渡ってしまった。